写真と文

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病室で後悔しないように生きている

七年間、川を歩いてはその様子をブログに記している。

 

今まで東京をメインに日本各国、ときには海外の川に赴き、合計70もの川を歩いた。川歩きでは、主に最初の一滴が流れる(流れていそうな)水源地域から歩き始め、「山登り」とは真逆の「川降り」と称して可能な限り川の隣の道を歩き、最後は川が海に流れ込むのを見届けるというのが一連の流れだ。距離が長い日は一日で20kmほど歩くが、これは高尚な理由があるわけではなく、何度も川沿いまで公共交通機関を使って移動するお金を節約したいという貧乏性の発想からくる。10kmまでは楽しく歩けるのだが、それ以上を超えてくると何でこんなことをしているんだろうという思いがこみ上げ、でも10kmで切り上げるのは貧乏性の性質から惜しく、今にも折れそうな足と心に鞭を打ってゴールを目指して歩き続けている。

 

川を歩いていると色々なことが起きる。電車の駅が近くにないため、バスやレンタサイクル、たまにレンタカーまで駆使して移動しないといけないことがある。地図をいくら確認しても川沿いに道があるのか確認できず、現地に行って途中で行き止まりになり、何十分もかけて歩いて来た道を、へろへろになりながら引き返すこともある。川沿いにレストランやコンビニが都合良く並んでいることは少ないため、腹を極限まで空かせながら歩いていることもあるし、逆に食べるものを持っていても落ち着いて座って食べる場所がないこともある。おじいちゃんおばあちゃんによく話しかけられる。山の中の水源地帯に迷い込み、狩猟者に撃たれないか冷や冷やしていることもある。最近ではトイレが見当たらなくて漏れそうになったこともあるし、河口に辿り着いたと思ったら強風でキャップが吹き飛ばされ海に落ち…るところをギリギリ堤防に落ちて、どうしたら拾えるものかと悩みあぐねたこともある。川歩きのおかげで「行けるところまでは行こう」と思えるようになったし、よくわからないハプニングに巻き込まれると「生きているな〜」と感じるようになった。

 

川沿いを歩いてブログに書き始めたのは2017年1月だ。当時ふと「本を書きたい」と思い立ち、自由大学の「自分の本をつくる方法」という講座に通った。その講座で「本を出版したければ、日頃からブログを更新して長文を書ける人だという実績をつくった方がいい」というアドバイスを受けて、自分が日頃から長文を書けることはなんなのかと考えを巡らせた。そのときに思いついたのが、多摩川だった。十年間ほど毎日の通学・通勤で多摩川のあるポイントを越えていて、「このポイントより上流、または下流はどうなっているんだろう?」というのが永遠に探究できそうな問いな気がした。それ以来、長文、というかただの歩いた記録なのだが、を地図子ブログに書き続けている。

 

先日、自己紹介で「川歩きが好きで〜」という話をしていて、「どんな感じで歩くんですか?」と聞かれ、「一つ川を選んで一日20kmくらい…」と返事したらたいそう驚かれて、「それがライフワークなんですね!」と言われた。ライフワーク…なのか?と思った。ライフワークってもっとこう雷みたいにビビッと降りてきて、マザーテレサ並みに人の役に立つものじゃないのか?川を歩いている時間は、基本誰のためのものでもない。自分だけのものだ。もっとも自分自身に関しても10km過ぎたあたりから歩いていることを後悔してくるので、ほぼほぼ足を上下させているだけの修行だと言ってもいい。これがライフワークだとするとマザーテレサに申し訳ない。

 

ただ、ライフワークと聞いて一つ思うことがある。
それは「自分は死ぬときに何を後悔しそうか?」という問いだ。

 

世の中では「愛している人にもっと愛を伝えればよかった」とか「やりたくない仕事に時間を注ぎ込むのではなくて、もっと他のことをすればよかった」と後悔すると言われているのだが、自分が病室のベッドに横たわって窓の外の晴天を眺めながら思うのは確実に「ああ、もっとあんな場所やこんな場所に行っておけばよかった」だと想像がつく。自分は小さいとき病弱で、幼稚園のときに二度入院しているのだが、当時も夜病院の隣を電車が走り抜ける音を聴きながら「ああ、お父さんはこの電車に乗って職場から家に帰っているんだろうな」と移動できることをうらめしく思ったものだ。大人になったらなったで今度はめんどくさい授業や行きたくない仕事の日があり、そんな日は逆に「このまま終点まで電車に乗り続けたら、自分はどうなるんだろう?」とよく想像していた。世の中で埋もれてしまいそうな日々の妄想を、趣味として現実にしている。

 

川沿いを何十kmも、ただひたすら歩く。そこに世間から見た価値はないかもしれない。でもいつか死を迎える将来の自分にとって、意味はある気がするのだ。

 

そんな感じで意味も探り探りで歩き続けているが、川を歩いていたはずなのにいつのまにか暗渠(あんきょ:埋められた河川を指す)まで遡ってしまって暗渠仲間ができたり、同じくブログを書いている廃墟ガールと散歩をしたらなぜか井戸ポンプや狂気ぶたにハマってしまったり、わざわざ行くことはないだろうと思っていた日本中に16基しかない登れる灯台を踏破していたり、意味がわからないからこそ出会う世界がたくさんある。来年には新しいものを追いかけているかもしれない。意味なんて死ぬ最期のその瞬間までわからないのだから。

 

 

 

 

寄稿者:地図子

まちなみ冒険家。地理・歴史・地学を使ってプチ冒険すれば、面白くない場所なんてない。川・暗渠・用水・湧水・井戸ポンプ・灯台・狂気ぶた・飛び出し坊やなど、なんの意味があるのかわからないものを収集しています。

 

地図子ブログ:ふと思い立って、プチ冒険

 

廃墟ガールの寄稿記事のご紹介(地図子も登場します):

その1:暗渠行脚/ankyo angya - 写真と文

その2:いとしの狂気ぶた/lovely happy crazy sleepy kyokibuta - 写真と文