最近、昔のことが、今、起こったように思い出すことが多い。まるで記憶が止まってしまったようで、タイムスリップしたかのように感じることがある。
昨年末、このWeb同人誌の発起人を中心としてオフ会を開いた。そのとき、10年ぶりくらいに銀座線に乗ったのだが、駅と駅の間で車内の電気が消えないので驚いた。
メタバース"cluster"で、銀座線の電気が消えたのを覚えている人を募ってみたら、40歳の人が、幼心に記憶があるという程度だった。いったい、何十年前だろう。
そんな、何十年前のことが、まるで昨日のことのように思い出される、いや、それが起こらないことに驚かされる、そんなことが、最近になり、よくあるのだ。
話は、また、30年前の学生時代のことである。
私は麻布の仙台坂上にある親の実家から神田駅前にある専門学校まで都バスで通っていた。今は新橋止まりとなっている「橋86」というバスが日本橋三越まで通っていた。
銀座通りを通るバスだから、朝こそ順調に走るものの、昼は渋滞が酷く、そのために新橋で運行切り上げとなったのだ。これは、私が利用を止めて直ぐのことだと思う。
都バスの定期券というのは、フリーカードといって、均一料金区間は全線、乗り放題であった(今もそうだと思う)。私は定期券を使って色々なところに行ってみた。
お台場というのは義務教育の教科書に載るくらい有名であるけれど、レインボーブリッジがなかった当時、そこへ行く公共交通手段は品川発の都バスしかなかった。
しかも、まだ何区になるかも判然としなかったお台場には、江東区側からなら一般道で行けるのかも知れなかったが、私が住んでいる港区側からは高速道路に乗らなければならなかった。
都バスで高速道路を走るというのも、なかなかできない体験である。私は都バスで高速道路に乗ってお台場に行ってみることにした。
これも不思議なもので、どうやって品川まで行ったのか、まったく覚えていない。今の品川と新宿を結ぶ都バスが六本木経由と西麻布経由の2系統あって、それに乗った気もする。
しかし、この都バスも何回か経路が変わり、当時は品川ではなく田町に着いていたような記憶もある。とまぁ、なんせ30年前のこと、記憶が曖昧である。
肝心な品川からお台場までも、どのような行程だったのか覚えていない。ただ蒸し暑いバスの中、渋滞の首都高をバスに揺られていた記憶が薄っすらあるのみだ。
着いたお台場というのは、単にお台場海浜公園があるだけで、周りは工事の塀に囲まれ、公園以外のどこにも行くことができなかった。住所も「台場」ではなく「13号地」だったのではないか。
そんな工事現場に囲まれたお台場海浜公園であったが、ウィンドサーフィンをしている人がいたのは覚えている。海の家的な売店が1軒、あった。
私は、せっかく夏の海に来たのだから足くらいは水に浸してみようと思って靴と靴下を脱ぎ、ズボンを捲し上げて、ちょっと海の水に入った。
しかし、工事現場に囲まれた、お台場海浜公園の水は、まるでヘドロであった。水が乾いても足が臭く、これではバスになど乗れない、どうしたものかと思ったのだけが記憶にある。
結局、どうにかして帰ってきたのだろうが、当時の記憶にあるお台場は、お台場海浜公園以外は立ち入り禁止だったことと、海水が汚かったことだけである。
ただ、銀座線の電気が消えることのように、そのことだけが、まるでポッカリと現在に再現されたように思い出すことが、今でもあるのだ。
今回の寄稿者:ふぉんと (𝒇𝒐𝒏𝒕)
精神病闘病ブロガー
ブログ・「遺書。」
私小説・「私の話 2019」
X (旧Twitter)・@fonttoto