こんにちは。ルグと申します。
普段はツイッター(新X)で平凡な写真アカウントをやっておりますが、
この度ひよこ編集長にご招待いただきブログに参加させていただきました。
この企画は「写真と文」ということで、写真は普段からいくらでも撮り歩いているのですが、文章の方は業務上の言い訳とXくらいしか書く機会がありません。
また筆者は教養がないためコラムとかエッセイがどういったものなのかも分かっておりません。
そのためこの投稿のジャンルは「絵日記」または「怪文書」となります。
またこの投稿を含む僕の言動の責任の所在は全て大塚さんにあります。ご了承ください。
さて、本題に入ります。2月の三連休の初日は天気も良く、絶好のサイクリング日和だったため、重い腰を上げて朝から自転車で手賀沼まで出かけていました。
天気の良い日に自転車を漕ぎながら思索にふけるのはお写んぽと並んで人生で最も幸福な時間なのは言うまでもありません。
この日も手賀沼の周遊路を気持ちよく走りながら、沼と湖の違いは何か?という深淵なテーマについて考えを巡らせていました。
無論、我々には20世紀最大の発明であるインターネットという叡智の結晶があるので、答えを知ろうと思えばググり芸で瞬殺できます。
しかし僕が知りたいのは、そんな辞書を引いたら出てくるような無機質な答えではなく、熱い想いを巡らせた末に得心した答えなのです。そもそもサイクリング中の酸素が十分に脳に行き渡っていない状態で考える思索なんて、風邪を引いた時の夢みたいなものなので深く考えても仕方ありません。
そんなわけで沼について考えていました。
沼といえば暗い、汚い、澱んでいる、爽やかさがないような印象を受けます。
マジック:ザ・ギャザリングでいえば黒マナが出る土地です。
ところが実際に手賀沼を見てみると、そこには美しい水面が広がっており、鴨たちが元気に泳いでいます。
こんな美しい光景を前にして暗い汚いなどといった感想は間違っても出てきません。マジック:ザ・ギャザリングなら緑マナとか出てくるでしょう。
では何が手賀沼を沼たらしめているのでしょう。
一体なぜ手賀沼は手賀湖ではないのでしょうか。
バレエには白鳥の湖という有名な演目があります。
筆者は無教養なのでバレエなど見たことがありませんし、内容も全く知らないのですが、きっと湖に白鳥がいるのでしょう。
つまり手賀沼には白鳥がいないから沼なのではないか。
手賀沼一周サイクリング六分目あたりにある手賀沼公園のふれ合い岸辺で、野生を忘れた白鳥が自分と対して変わらない大きさの子どもに餌付けされているのを眺めながら、そのような考えを巡らせていました。
そんなわけで白鳥の湖説も破綻となりました。
何故手賀沼は沼なのか。思考は再びスタート地点に戻りながらも、サイクリングは先に進もうと手賀沼公園を後にしようとしたところ、視界に一つの看板が入ってきました。
クリーンレイク。手賀沼を綺麗にしようという趣旨の看板。
筆者は中学1年で英語を諦めたのでアメリカ語は不自由なのですが、レイクの日本語訳は湖だったと記憶しています。
それなら手賀沼はテガ-レイクなのだろうか?
琵琶湖はビワ-レイクなのだろうか?
グーグル検索したら普通にTeganumaと出てきたことで、いよいよ思索が混迷を極めてきました。
沼とは一体なんなのか。手賀沼と琵琶湖の違いは何なのか。思考の沼にはまり、沼にはまるとはいうのに、湖にはまるとは言わないな、というようなことを考えながら、それでも足はペダルを漕ぎ続けました。
休憩を挟みながらもかれこれ5時間以上自転車を漕ぎ続け、いよいよ脳への酸素共有が足りなくなってきた頃、少し沈んできた陽の光が一際美しく手賀沼を照らしていました。
周りを見渡せば周遊路にはロードバイクで疾走する人、ランニングする人、カメラや双眼鏡を持って鳥を眺めている人、親子連れで遊ぶ人、いろんな人が豊かな休日を過ごす。
こんなにも多くの人が集まって楽しんでいる手賀沼は、たとえ沼だとしても決して湖に劣るものではない。それでいいじゃないか、と。
手賀沼一周を終えて道の駅しょうなんでミル挽きコーヒーを飲みつつ、そろそろ飽きたのでそう結論づけて思索にピリオドを打つことにしました。
ちなみにググったところによると、沼は水深5m以内とのことで、
手賀沼は最大水深3.8mで沼、琵琶湖は水深104mだそうです。
次回は多摩湖あたりを走ります。
寄稿:ルグ