いま住んでいるところは、徒歩圏内に図書館がある。しかも複数ある。それを目的に選んだわけではないが、とてもいい環境だと思っている。編集長もよく図書館に行っておられるが、私も昨年、今の物件に移り住んでから、それまで以上によく図書館に通うようになった。
図書館通いはとても経済的な活動だ。いまどき、映画でも音楽でも漫画でも、一生かけても消費しきれないほどのコンテンツをサブスクで簡単に楽しむことができるけれど、コスパの点で公共図書館に勝るものはない。何せ無料である。銭湯趣味よりも安い。生きているだけで色んな税金を取られてうんざりするけど、こういう公共サービスのために課金していると考えればまだ納得できる。だったら元を取らないと。
もっとも私の場合、最初から「この本を読みたい」と思って図書館に行くことはまずない。返却待ちや配架のリクエストもしない。そういう本は、絶版でもない限り、図書館に行くまでもなく購入してしまう。私は、図書館とはもっと、チャラいおつきあいをしている。
休日に自宅で少し時間ができると、ふらっと図書館に出向く。なんとなくテーマを決めたり決めなかったりして、目に留まった本を片っ端から手に取る。10冊だか20冊だか集まれば、席に移動してぱらぱらと目を通す。この段階ではとにかく数が大事だ。ナンパのようなものである。
読みたい情報が書かれていそうか、面白そうか、文体が肌に合うか。本は星の数ほどある。右へ左へスワイプするかのごとく、かなり感覚的なふるいにかけてしまう。それを何度かやって、最終的に残った3冊とか5冊とかをお持ち帰りする。そうしてしばらく、おためしでつきあってみて、やっぱりいいなと思えたら真剣交際を申し込む。図書館は、さながら税金によるサブスク型の公共マチアプである。
とはいえ、お持ち帰りができても体力がいる。見つけたときには「いいかも」と思ったはずなのに、いざ帰宅すると疲れ果ててしまっていて、気分が乗らないこともある。相手が重いタイプだと、自分もその期待に応えないといけない気がして、余計にプレッシャーを感じてしまう。だから、せっかく自宅に転がり込ませたのに、おためしの2週間、ひと晩の営みもないままにお別れなんてことも結構ある。そういうわけで、最近は割り切って、なるべく軽いタイプとつきあうことにしている。分かってほしい。本の話である。
軽い本はいい。そう気付いてから、欠かさず回るようになったエリアがある。キッズコーナー、つまり子ども向けの本が集まるエリアである。ブルーバックスや岩波ジュニアなんかもいいが、絵本や図鑑、最近は学習まんがなんかがお気に入りだ。子ども向けと侮るなかれ。テーマだって偉人伝に始まり、日本史・世界史、科学や政経、身の回りのふしぎに至るまで幅広い。だから、あえて選ばず偶然に任せて手に取ったりもする。むしろ全く知らない、興味さえない分野のものがいい。そうして読んでいるうちに、新たな分野への取っ掛かりがひとつできあがってしまうのだから、大したものである。
子ども向けの本は文章が平易で、図表や挿絵も豊富なのでとても分かりやすいし、ページ数も少ないからすぐ読める。それでいて、エッセンスをぎゅっと詰め込んでくれている。要するにタイパがいいのである。この態度を「ファスト教養」なんて嗤う人がいるかもしれないが、嗤わせておけばいい。カタい本ばかり読んでいると、文章や思考まで固くなってしまう。難しい言葉をただ難しいまま話したり書いたりすることを教養や知性とは言わない。易しく変換する技術を、子ども向けの書籍から学ぼうとしている。
夏休みが終わり、図書館に本がたくさん戻ってきた。子どものころ「やるかやらないかも自由だろ」なんて敬遠していた「自由研究」の響きに、今さらときめくのはなぜだろう。いまどき貸出も返却も無人なので、何も恥ずかしくない。あれもこれも読んでみたい。白髪交じりの大人が、自分のために子ども向けの本を借りていく。ときどき、子どもを差し置いて悪いな、なんて思わなくもないのだが、そこは公共施設、ふと目をやると「みんなでささえる しょうひぜい」なんて標語が躍る。俺だっていっぱしの納税者だからな。今日もまたキッズの書架を物色する。