近頃、自分のやりたいインターネットは、「庭いじり」とかに近いのかなと考えることがある。
「庭いじり」という趣味は、「ガーデニング」や「家庭菜園」と比べると意味がちょっと広い。何かを育てるということよりも、庭という空間を自分好みにアレンジし、手入れすることそのものに趣味性を見出す活動と捉えたい。 結果的にきれいな花が咲いたり、作物が実ることがあるかもしれないが、そのことだけが目的ではない。
庭というのは面白い空間だ。
庭は外界とは区別された私的な空間だけど、完全に閉じているわけでもない。だから、基本的には自己満足の世界のようでいて、他方、友人との団らんの場になっていたり、ふと通りがかった見知らぬ人が足を止めて、いいねと褒めてくれたりもする。
庭をどうつくるか。無機物ばかりを置くのか、植え物や水場を設けるのか、ド派手にするのか、あえて簡素に振るのか、自然のままを活かすのか、大きく手を加えるのか、それはその人次第だ。だから個性が出る。
庭は自分の空間だから、どれだけ個人の趣味に走っても構わない。好きなものを好きなように配置して、好きなように空間を残して、自分らしい味付けを加えては、少し俯瞰して眺めてにんまりする。ときどき、物を足したり、引いたり、入れ替えたりしたくなるけど、そのこと自体が楽しかったりする。
自分も外を散歩する。気になる庭を覗かせてもらったり、交流を楽しんだりして。そして、帰ったら少し真似して取り入れてみたりする。そのうち仲良くなって、集落やコミュニティができたりする。庭は空間そのものというよりも、人と人との間の、プライベートとパブリックをつなぐインターフェースだ。
庭が外に開いていると、たまに変な人がやってきたり、事故に遭ったりすることもある。苦手な人も足を踏み入れてくるし、あまり調子に乗っていると、それをよく思わない人から庭を荒らされたりすることもある。だから、用心深い人はしっかりとした塀を立てたり、慎重に鍵をかけたりもしている。それでもときどき、誰かが不義理をはたらいたり、不始末があったりして、火事になる。そうならないように、近所付き合いをちゃんとやったり、コミュニティに貢献しようとしたりする。
自分の庭は、できることなら広くてイケてるものにしたい。どのくらいって、そんなのうまく言えないけど、そりゃ狭くてダサいより広くてイケてる方がいい。だって、広いほうがあれもこれも置けるし、イケてる方が人の目にも留まる。器用な人は、そんな庭をいくつか持ってたり、それらを上手につなげていたりもする。だけど、ただ広くてイケてればいいかと言われると、常にそうとも言い難い。
広くてイケてる庭は夢と可能性も広げるけれど、メンテナンスにも手がかかる。それに、何かのきっかけで急に名所扱いされてしまったり、特別な出来事があったりして、分不相応な規模の庭を手に入れてしまうことで、かえって辛い思いをする人だっているそうだ。だからか、あえて制約を課しながら、小さな庭で自分の世界観を表現しようと試みる人もいる。
庭いじりは、書斎やガレージやアトリエの趣味とも似ていると思う。好きな資料とこだわりの道具と自慢の作品で囲まれた、思索と試作と創作の場という意味ではつながっている。だけど、外へゆるく開いたセミソーシャルな空間でもあるという側面を見ると、「庭」という表現が自分にはしっくりくる。
表現し、発信する場があればそれは庭だ。この点で、私はSNSやブログを庭と捉えているふしがある。好きなことを好きなように、だけど少しだけ、他の人からの視線も意識しながら表現する。そうやって発信した投稿の蓄積が私の庭だ。都会の庭付き一戸建てはハードルが高いが、デジタル庭いじりなら手が届く。
とりわけXはよくできていて、人口の多い大都会でかんたんに自分の庭を作れる。だけど、結局は借り物の庭だ。ときどき地主の変な思い付きで、大胆な現状変更がもたらされる。住民はそのたびに辟易していて、出て行ってしまった人もいる。
そんなこともあって、最近は個人ブログや個人サイトに回帰するという考え方もあるそうだ。それがただちにメインストリームになるとはぜんぜん思えないんだけど、だけど、庭いじりのあり方としては、確かになくはないな、とも思うのだ。
借り物じゃない庭は一から作らなきゃならない。いじるにしても、それなりの知識や技術や手間が要求される。だけど、それも庭いじりの醍醐味の一つかもな、なんて。
自分の好きなものに囲まれた、常に完成していて、常に未完成の、閉じているようで、ゆるく開いた、そんな庭を持つことに、最近ちょっと憧れている。