写真と文

誰でも参加自由。メンバーが共同で作る WEB 同人誌

役立たずの自分でいい

f:id:pochin_pudding:20240218190833j:image

漠然とした焦燥感と向き合ってきた。
役立つ存在でなければ、そこにいることさえ許されないような気がして。

誰だって自分のことで精一杯だ。
困っている人がいても、助ける余裕なんてない。

自分の身は自分で守れ──

手を差し出せない現実を正当化するために、「自己責任」のスローガンは、皮肉にも、もっぱら自己ではない誰かに向けて発せられてきた。
そうやって、せめて自分のことだけは守ってきたはずなのに、もはや、それすら危うい。

終わりのないカイゼンの果てに桃源郷を夢見て、無駄をなくせとあくせく働く毎日に、効率こそ至上と掲げ、成長を求めてきた。
なのになぜだろう。捨ててきたものを振り返れば、どれもこれも、輝いて見えるものばかりだ。
ないものねだりかもしれないけれど、今さらそんな現実を直視できるわけもなくて、手近な「役立たず」を探し出しては、そこに責任を転嫁することで、なんとか平静を装っている。

自分の尻は自分で拭け──

切り捨て続けるその先で、いずれは自分の番が回ってくる。
そのことに、心のどこかでは気が付いていたとしても。

目覚ましい技術進歩の傍らで、モノもコトも溢れすぎた。
新しさはすぐに模倣され、選択圧にさらされる。
スペックはたちまちコモディティとなり、差別化要素はコスパしか見当たらなくなって、そのチキンレースの中で、やがて自らを安売りし、果ては無価値となっていく。

プロダクトだけの話じゃない。
人だって、同じように振る舞っている。

我こそが役立つ存在だと、役立たずはあっちだと、互いに己を磨き抜き、次第に芯まで削れ、いつしか脆くなり、知ってか知らずか、今日もコスパの競争に加担させられている。いくらかは擦り切れたりしながら。
その様はまるで、鮮度をうたうショーケースの中で、割引シールが貼られた見切り品のようだ。

そんな在り方を、当たり前だと思うことをやめたのは、けっこう最近のこと。
ブログを読んだり、SNSで人と交流したりするようになってからだ。
それまでは、他人の日常の感想文やつぶやきなんて、役立たずで価値のないものだと考えていた。

だけど間違っていた。

同じ気持ちの人を見つけることで、救われた気持ちになった。自分と異なる価値観をなぞって、新鮮な驚きを得た。飾らない日常を切り取る精緻な表現に、思わず膝を打った。熱量の高い発信が、自分を強く揺さぶった。バカなやり取りを通じて、心許せる友人ができた。

腹を膨らすでもない、なにげない意味の交換にだって、ちゃんと価値はあるんだと、やっと気がついたんだ。

以前の自分が、無駄なものだと嗤ってきたものだ。
だけど今は、その無駄をこそ、許し愛せる自分でありたい。
役に立たなくても、価値あるものはたくさんある。
分かる、好きだ、これがいい、そんな情緒的な価値が、もっと胸を張っていていい。

機能なんてものは、対象がもつ性質のいち側面に過ぎない。
追われる日々の中で、忘れかけていた。
大切な価値は、たいてい人と人との間の、意味の中にある。

だから、自分の安売りなんかしなくてもいい。
役立たず。結構なことじゃないか。


寄稿: ぽちん(id:pochin_pudding
磨き抜かれた身欠きニシン、なんつって。
X: @pochin_pudding
note: pochin_pudding