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歯石

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歯の定期健診に行った。

歯科衛生士のお姉さんにアレをアレされながら歯石を取ってもらったり、クリーニングをしてもらって、最後に歯科医のチェックを受けると、いつぶりだろうか、虫歯を指摘された。
歯と歯の間あたりに、小さいのができ始めているらしい。

「詰まりやすく磨き残しやすいところですからね。別の日にまた来てください。ちょっと削って埋めれば大丈夫ですよ」だって。山岡士郎かな。
仕方ないけど、めんどくさいなと思った。

恥ずかしながら、子供のころから歯医者には世話になっている。ちゃんとよく磨いているつもりなんだけどな。つもりなんだろな。できるだけ長くおいしい食事を楽しみたいので、おじさんになってからは、定期的に診てもらうようになった。

姪が生まれて少し経ったある正月、実家で食事しているときのことだ。私が姪を腕に抱かせてもらいながらおかずをつまんでいると、その父にあたる私の弟が「その子には口移しでものをやらないようにしてくれ」と言った。別にそんなことはするつもりもなかったが、兄貴の虫歯菌をうつしたくないから念のため先に言っておくのだ、という。ひどい言われようだと思ったが、調べてみると、実際あまりよろしくないようだ。幼い頃は、他人の唾液を経由することで、虫歯菌が常在しやすくなってしまうのだとか。弟自身も、虫歯歴があるという理由で、口移しは禁じられているという。 歯の健康体質は、幼児期に入るまでに大部分が決まってしまうそうだ。姪には、虫歯とは無縁の人生を歩んでもらいたい。

歯石を取ってもらうと、少しだけ歯間が広くなった気がする。実際、物理的に隙間ができているのだろうが、見た目にはよく分からない。なんとなくすっきりするし、気持ちはいいので、それでいいことにしている。詰まりが取れて、心なしか、どんな言葉も自然と口をつきそうな気がする。普段言えないことも、言わない方がいいことも。

昨秋、京都から大阪に引っ越した。歯医者も床屋も服屋も、引っ越し先にだっていくつもあるのに、住み慣れた街に今も足を運ぶ。長く通った関係性は、なかなか変えづらい。自分の身体や荷物は簡単に動かせるが、文脈まではそうはいかない。「伸びた分だけ」とか「この前買ったやつ」とかで話が通じるということだって、立派な価値だ。

歯医者のあと、なんとなく思い立って、前に住んでいた物件の前まで行った。中まで入るわけにはいかず、以前の部屋に新しい住人が入ったのかどうかは、よく分からなかった。ふと、たくさんの住人がびっしりと入居するマンションを前に、ただぽつんと立つ、もはや部外者となった自分の所在ない姿を省みて、なんだか自分がぽろっと取れた歯石のようだなと感じた。

明るいうちに、その近くにあった風呂屋に足を向ける。今日は繁盛している。長く住んだ街なので、「おう、久しぶり」とでもやれればいいが、当時もよそものとして生きていたので、なじみの顔があるわけでもない。ひとりぼっちだ。そう思っていた。

「今日はいつもより熱いですね」

居合わせた常連風の男性が話しかけてきた。

「わかります。今日は熱いですね」

私が応じる。

「お兄さん、こちらにはよく来られますか」
「ときどきです。銭湯が好きで、あちこち巡っているんです」
「そうですか。私もね、京都の銭湯はおおかた回りましたよ」
「それはすごい!え、あそこまで回られたんですか!もっと詳しく聞きたいです」

そんなやり取りをした。
ふだん、人見知りゆえ知らない人には塩対応の私にしては、饒舌だったように思う。だけど本心だ。

サウナで珍しく会話を楽しみ、水風呂に入る。気温が下がっているからか、久しぶりだからか、水温がより冷たく感じる。思わず歯を食いしばり、その隙間からシーっと、少しずつ息を吐く。そうしてこざっぱりしてから飲みに行くコーヒーは、すっきりして心地がいい。

大した知識もこだわりもないから、たいてい何も考えず、ブレンドのブラックをオーダーする。ひと休みなので、甘いお菓子も添えようか。クリームがたっぷり乗ったケーキもいいが、乾いたクッキーも悪くない。だけど、どうしても虫歯のことが頭をよぎり、なんとなくミックスナッツで済ませることにした。

ナッツをかじっていると、電話があった。支店の同期からだった。こんど今の職場を辞め、転職するらしい。転職先は今や誰もが知っている企業群の一角。年収もかなり上がり、彼にとっては大きなステップアップとなる。
「それはすごい!寂しいけどおめでとう。こんど祝いの場でも持とう、俺も鼻が高い。落ち着いたらあそこの内情、こんど教えてくれよ」
そんな言葉が、流れるように口をついた。彼は満足そうだった。

虫歯の原因はナッツかもしれないな。そう思った。


寄稿: ぽちん(id:pochin_pudding
つまらない人生なんてごめんだよ。
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