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私が物を書く理由(鷺沢萠『駆ける少年』を読んで)

 

 すみません、発起人3人のうちの1人なのですが、他の2人が頑張っているのに風邪をこじらせて筆が止まっていて、無理をして書きます。書評? なのに原典に当たらずに書きます。なので、この文章には、あまり期待しないでください。

 さて、去る4月11日は、鷺沢萠(さぎさわめぐむ)没後20周年の命日「葉桜忌」だった。しかし、35歳で亡くなった女性に没後20年というのも、何か酷である。私は鷺沢萠の生前に鷺沢萠の作品を読んだことはないが、一時、物凄く嵌った時期がある。

 なぜか読んだことはないのに自分の本棚に著書があって、確か『スタイリッシュ・キッズ』だと思う、さして面白いとは思わなかった。私と鷺沢萠は同世代であるが、渋谷などにいる、学校にも行かずに昼から遊んでいるような人々が描かれていた。

 私はそういう人たちを直に見ているから面白くないのであるが、それを都会像として鷺沢萠の作品に憧れたという地方の人々がいることを後に知った。しかし、鷺沢萠の本領は、やはり後に泉鏡花賞を獲る純文学作品にあるだろう。

 鷺沢萠の純文学作品に登場する人たちは、決して恵まれていない。しかし、懸命に幸せになろうと努力をする。前述の都会の若者像とは真逆である。しかし、前述の若者たちも、決して幸せそうではない。将来は大学に行かなくても親の会社を継いだりしなければいけない、その期間を一生懸命、楽しい振りをしているように見える。

 原典がないのでタイトルすらウロ覚えだが、たしか、筆者には「理由なんてない」というようなタイトルのエッセイがあった。内容としては、なぜ書くのかと訊かれるが、書きたいから書くのであって理由などないという趣旨だった。

 同じように、彼女が書く登場人物が幸せになりたいと思う理由があるのだろうか? 彼女が書く登場人物は現状に満足しない。そして努力する。そして、それは、そのまま、なぜ、自分が物を書くのかということに通じる理由だ。

 現状に満足できない自分という存在を考えると、やはり、なぜ、そうなったのかを考えなければいけない。書くことは考えること。過去は変えられないといって、そのことに否定的な人が多い。

 鷺沢萠にも『私の話』という著作があるが、私は、過去に遡って、その原因を突き止めたい。そして、その思いを他人に伝えたい。同じ轍を踏んでほしくない。これが、私が物を書く理由である。

 なんか大昔のBlogの下手な焼き直しになってしまった。

 

鷺沢萠公式サイト "Office Meimei" (オフィスめめ)

meimei.la.coocan.jp

 

 

今回の寄稿者:ふぉんと (𝒇𝒐𝒏𝒕)

精神病闘病ブロガー

 

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