↑Copilot製 横長でリクエストしたけど無理だった
こんにちは。スナエルのエルベです。
ずっとちょっとずれた健常者として生きてきたら37歳で双極性障害、46歳でADHD診断がおりました(^_^;) び、微妙w
こういうの、別に自分は困ってないが? ってメンタルだったら健常者として生きてるんでしょうね……。
さて、そんなわけかどうかはさておき、割と自己分析ばかりしてきたつもりなのです。
他人は鏡。自分が持っているものしか映さない(世界には自身が認識できるものしかないのと同じ)のです。歪んだ認識でどう戦うか。生きるのは戦いです。絶対いつか死ぬ負け戦ですが(笑)せめて人として死ねるように。
私の持論(?)なのですが、愛と呪いは同じ成分だと思うのです。
愛と呪いと差別の基本成分は一緒だと思っている。
「お前は俺にとって、あいつ(ら)じゃない」
そうやって僕らは名づけられ愛され呪われ、差別されて成長するよね。
ある文化で善意だったものの象徴、「神」が、別の文化と出会い、認められず「悪魔」とされてしまう……。神の「愛」の御業は悪魔の「呪い」という悪意に変換されてしまう。
私達はそうやって誤解しあい、理解した気になったりしながら愛と呪いを行ったり来たりするのだと思います。誤解も理解もどっちも「現実」とずれていたりするのですよね。
ジャック・ラカンによれば「愛が措定されるのは、何よりも愛がその対象をあきらめる彼岸においてだけ」らしいのです。よく意味はわからないのですが。
いっそ愛してくれていなければ憎んで終われるのに。
— elve (@elve_hatena) 2024年3月25日
多分、親の愛を諦めて、そして振り返り
「ああ、私が欲しい愛ではなかったけど、あの頃、親は親なりに私を愛していたのだろうな」
なんて思った時だけ、そこに「愛があった」ことになるのではないでしょうか?
それが求めたものと違っていても。
だから、私は愛は時空を超えて届くのだと思うのです。
相手が自分を忘れかけて諦めてくれたような時、ふと、届くのだと。
逆に自分が他人へのある種の期待、執着を手放せた時、諦めたときに手元に届くのだと思っております。
呪いは呪っている間自分も呪われてしまいます。それはもう恋に落ちた娘のように(って『ぼく地球』の輪くん言ってような?)。
愛も呪いも自己愛からくる執着でしかないのかもしれません。
令和は「呪い呪われ」なんて歌詞を結構聞いた気がします。そんなのやめちゃえばいいんですよ。面倒くさい。
もっと愛し合いましょう。もっと自分を愛しましょう。今は自分にすら届かなくても。
いつか自分を諦められたら、笑顔で逝ける気がします。良し悪しの判断はできませんけれど。
〽愛には愛で感じ合おうよ、と。
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