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何もあてにしない

自分の人生における「不安」というものについて考えてみた。
持たざる(モテない)人生を貫きまくってしまっているので、隙あらば「お前の人生、不安と心配だらけだろう」と、どこかの誰かから指をさされそうなものだけれど、最近は全然無いな、不安。


何年か前に「自己防衛おじさん」というネットミームが流行ったが、ネタとしての秀逸さもさることながら、あの短い街頭インタビューの中で「先行き不透明な時代の処し方」みたいなものを見事に喝破していたように思う。

全くその通りで、不安・不満というものの裏側には、世の中・システム・他者等々、自分以外の何かを「あてにしている」「期待している」という甘えの心理が潜んでいるように思える。


ところで、「貧乏は嫌だ(でも頑張りたくない)」「痩せたい(でも食べたい)」のような願望の裏で矛盾する感情があるけれど、こういうのも最たる甘ちゃん的な考え方で。
頑張らないで成功するとか、好きなだけ食べて痩せるとか、絶対に「無い」から。

覚悟を決めてどちらかを捨てるしかない訳で。


何が言いたいのかというと、不安で心配ならば、その不安の正体と原因をチラシの裏にでも書き出して、合理的に然るべき行動を選んで「がんばる」しかない、という事。
別に精神的に強いからこういう考え方をするのではない。
自分でコントロールできない事、まだ起きてもいない事にオロオロと悩んでいても事態は1ミリも改善しないどころか、精神衛生的に危険ですらあるからだ(危機意識が無さ過ぎるのもどうかと思うが)。


それと、不安や心配の種は「あって当たり前」「死ぬ間際まで付きまとう」くらいに考えている。一体全体、どこまで行けば安心なのか?どんだけ満たされたら気が済むのか?
バブル期以降、「先行き不透明な時代」などと流行歌の歌詞にも囁かれたりして久しいが、そもそも「先が見通せる時代」など有志以来あったのだろうか。
基本的に「明日どうなるか分からない」のは原始時代から変わらないだろう。


確実に訪れる自分の死がいつなのかすら分からない。常にお先真っ暗だ。僕らは、そんな先の見えないハイウェイを死に向かって猛スピードでひた走っている。
明日、大地震に襲われるかもしれない。明後日、交通事故を起こすかもしれない。来月、大病が見つかるかもしれない。来年の今頃、心の病に罹っているかもしれない(交通事故より確率が高そう)。その先に孤独で貧しい老後が待っているのかもしれない・・云々。


そんな事を考えてもしょうがない。そしてそれは、明日の会社だの、来週の試験だの、今月の締め切りだのの、ほぼ確定している未来についても同様で。
まあ、人間なので考えてしまう(想像してしまう)のだけれど、そうならないような行動を選択していくか、起きてしまった時にどう対処するべきなのか想定しておくしかないだろう。

「備えあれば憂いなし」「人事を尽くして天命を待つ」という、至極当たり前のオチになってしまったが。

万全に備え、十全に人事を尽くしても足りなかった時は?
「その時はその時さ」と開き直るつもりでいる。

 

寄稿:カラーひよこ

まあ、全然がんばってないんだけどね。。

X:@colorhiyokoma