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麻布笄町

現在の寓居から見た麻布(飯倉)方面・奥は麻布台ヒルズ

 NHKの朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」を観ている。主人公の家が「東京市麻布区笄町」であると知り、本籍・生家が隣町の麻布本村町である私としては、ちょっと書きたくなった。

 ただ、麻布といっても私の家は猪爪家のような屋敷に近い家ではなく(なんせ猪爪家は戦前から電話があって電話室がある)、寺が参道に構えていた長屋である。当時の麻布では猪爪家のようなお屋敷と、その住民が貸す借家に二分されていたようだ。

 私の住んでいたころも、まだ屋敷街の風情は残っていて、50万円もする自転車に鍵を掛けずに路上に駐車してあっても、盗る人がいなかった。また、米軍の麻布基地(星条旗新聞社)が近いため、米軍の高級職の人が多く住んでいた。

 東京は特別区になり23区になったが、普通区(東京市)時代には35区あり、それを合併させて(そのまま単独の区もある)23区になった。唯一の例外は練馬区で、これは板橋区が大きすぎて23区発足の翌年に板橋区から分離している。

 さて、麻布区であるが、芝区・赤坂区と合併して(厳密には芝区が麻布区と赤坂区を併合して)港区になった。数少ない3区合併の区である。麻布と赤坂は山の手だが芝は下町、3区合併したにしては上手くやっていると思う。

 他に3区が合併した区としては新宿区(牛込区・四谷区・淀橋区)があるが、手元の資料からは、なぜか四谷区が欠落している。しかし、横浜の人が神奈川在住と言わず横浜在住と言うのは有名な話だが、昔から四谷在住の人は、やはり新宿とは言わない。

 山の手と下町の合併というと、ドラマの主人公が通っていた大学が神田にあった。神田も神田区という独立した区であったが、麴町区を併合して千代田区となっている。これも、私の両親が結婚する前の本籍が麹町区紀尾井町だったので他人事でない。

 東京一の山の手を自任する麹町と東京一の下町を自任する神田の合併には一悶着あったらしい。本当は区名も神田区になるはずだったのだが、麹町が反対して「田」だけ残して千代田という名前を作ったという話である。

 ただ、こういう由緒正しさを主張する区というのは好ましい点もあり、昔の町名の大部分が残っていることである。私の本籍・麻布本村町など、戸籍に二本線が引かれ南麻布三丁目というスタンプが押されている。

 なので、私の本籍地は、南麻布に、そういう番地がないので、便宜上、地元で麻布本村町と呼んでいるだけで、厳密には南麻布三丁目〇番地である。そして、これが実在する住所とも違う番地なのだ。もっとも、私は、今は、同じ区内だが、そこには住んでいない。

 しかし、古い町名が息づく街というのは、それはそれで良さがある。再開発がしにくいということだ。麻布台ヒルズができたとき、森ビルの社員が港区は戦後になって越してきた人が多いので立ち退きは比較的容易という舐めたことを言っていて立腹しているが、私が小学生から高校生までを過ごした松戸市小金原というところは、確かにそういうところはある。

 それに比べて、幼少期と専門学校時代から、30年以上を暮らしている(今は麻布ではなく芝だが)港区には、非常に思い入れがある。私の住んでいるところも住所(住居表示)と違って地番は〇〇町〇番地のままなのだが、ここは、さる文豪の住居跡である。

 六本木など拡大して何丁目までもあるが、もともとの麻布六本木町というのは六本木交差点を中心とした、ものすごく狭い町であった。デベロッパーが目を付けるのは、住居表示が変わったところからと言っても過言ではない。

 今こそ、再開発されてしまったところは無理だろうが、できる限り昔の地名を蘇らせたほうが土地への愛着が沸くのではないか。なお、私が住むところも何とか何丁目になってしまったが(しかもバイパスに沿って境界線を変えたために地域名まで変わっている)、やはり再開発で私は来年、30年以上、住んだ土地を立ち退かなければならない。

 

 

今回の寄稿者:ふぉんと (font)

精神病闘病ブロガー

 

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