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Tony's Barの思い出

松下安東仁氏・1995年 筆者撮影

 

 1992年、私が二十歳で専門学校の学生だった頃の話である。あまりに昔の話で当時の活き活きとした楽しさを数割ていどしか思い出せないのが残念だ。

 まだ文壇バーなるものがあった時代で、作家というのはバーというところで飲むらしいということを聞いた。私は作家志望だったから、ぜひ、行ってみたいと思った。

 とはいえ私は熱心な読書家でもなかったし、バーに通うには若すぎたし、ある意味ファッションである。どうやって、それらの店に潜り込んだのか覚えていない。

 当時、私は麻布の仙台坂上に住んでいて、神田駅西口にある専門学校に自転車で通っていた。ちょっと遠回りをすると銀座であり、有名な文壇バーが幾つもあった。

 そんなワカゾーが、どうやって潜り込んだのか知らないが、私は新橋にあるTony's Barの常連となった。

 Tony's Barのマスターはトニーさんこと松下安東仁(アントニー)さんといい、お姉さん、ベティさんこと松下エリザベス典子(紀子という表記もあり)さんがママをしていらした。

 どうして、この姉弟がバーを経営するに至ったのかというと、このお2人のお父様が宣教師で、戦中、収監されており、終戦後、その保障金で店を始めたとのことだった。

 最初は日本橋人形町に開店したらしいが、敬虔なクリスチャンであるベティさんは酒を供する店を開くことに抵抗があったらしい。

 さて、この店が今なら問題となる店で、まず、バーは男の社交場ということで女性の単独入店は禁止であった。男性の連れとしてなら入店可能で、おおよそ1年、通うと単独入店が許可された。

 バブル崩壊前夜と時と同じくしてバー・ブームというのがあった。Tony's Barは立ち飲みの店で、鰻の寝床のような作りをしていた。カウンターから壁までの距離は1mなかったと思う。

 席は直ぐに満タンになり、トニーさんが奥の客に「申し訳ありませんが、もう少し奥にお詰めください!」と声を掛けて、やっと入れる盛況だった。

 そのような繁盛店で、私は、よく酔っ払いに絡まれた。ある日、サラリーマンに、こっちを見て、こんなワカゾーが来る店なんか長居できないよなと言われたことがある。

 トニーさんは素早くサラリーマンの会計を締め、幾ら幾らになります、どうぞお帰り下さいと言った。サラリーマンがエッ? と言うと、今、長居できないと仰ったのでとシラッと言った。

 次に今なら問題となるのはトニーさんの独断と偏見で客を選んでいたことで、つまり私は選ばれた客だった。常連さんに、あなたみたいな若い人が気に入られるのは珍しいことよと言われた。

 今になって思うと、作家先生から文学の楽しさ(あくまで楽しさ)を学ぼうとしたり、トニーさんから英語を学ぼうとしたり(英語の専門学校に通っていた)、そういう謙虚さが買われたのだと思う。

 また、そのワカゾーならではの浅学さから店の雰囲気を盛り上げたこともある。店の中の話題はルイ・アームストロングだった。私は「ニッチモでしたっけ?」と言って大爆笑を買った。

 そんなTony's Barは50周年を迎え、僭越ながら50周年の会に私も最年少の常連としてお招きいただいた。ただ、14時開会なのに間違えて午後4時に行き、いたのは主催者と村松友視先生だけだった。

 しかし、それが縁で後に村松先生の吉祥寺のお宅に伺うこともあり、青春の美しい思い出としてTony's Barは今でも私の心の中にある。

 

 ちなみに当時、セカンドを務めていた三枝栄治さんは現在、銀座七丁目でTOSTIという店を経営しており、三枝さんの次にセカンドとして入った越智卓くんがT.OとしてTony's Barを居抜きで営業している。

 

 

今回の寄稿者:ふぉんと (𝒇𝒐𝒏𝒕)

精神病闘病ブロガー

 

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