写真と文

誰でも参加自由。メンバーが共同で作る WEB 同人誌

春遠き栄村

常慶院

 東日本大震災発生からわずか半日後の2011年3月12日3時59分、長野県北部の新潟県との県境付近でマグニチュード6.7の大地震が発生した。最大震度6強。長野県北部地震と命名されたが、震源地付近にあり甚大な被害を受けた栄村の名前を取って栄村大震災とも呼ばれている。
 人的被害こそ少なかったが、秋山地区では道路寸断により約300名が孤立し、ここを除く全村に避難指示が出され、一時は村の人口の8割にあたる約1700名が避難している。JRでは横倉駅・森宮野原駅間などで路盤崩落が発生し、運転再開まで1ヶ月以上を要した。主要国道も、道路の崩落に加え、地震で誘発された雪崩のため寸断された。

 大変な被害であったにもかかわらず、東北の影に隠れあまり大きく報道されることはなく、長野県内ですら扱いは小さいように感じられた。

損傷したままの常慶院(2014年)

 私が栄村を「訪れた」のは翌年の8月だった。あえてカギ括弧を付けたのは、実は地震の前年に栄村を通過していたからだ。
 2004年の新潟中越地震の後、久しくお休みしていた自転車ツーリングを再開し、毎年小千谷、長岡、山古志、さらに2008年からは柏崎を訪ねていた。2010年は清里からスタートして千曲川・信濃川に沿って下るコースで、その途中が栄村だった。このコースはほとんど下りかフラットな道なのだが、栄村の付近だけやたらとアップダウンが多かったことが印象に残っていた。震災の後、スルーしてしまったという気持ちから栄村に宿泊してみる気になったのだった。
 村に宿は少なく、役場近く、森宮野原駅前にある「吉楽旅館」に泊まったが、そこがその後の栄村の拠点になった。話し好きな女将さんで村のことなど色々と話してくれた。震災復興にも様々な形で関わっていて、JRの復旧作業の間は森宮野原駅での折り返し運転となったためその待機・休憩所となり、また、天皇の来村時の昼食を提供したのも吉楽旅館だった。
 以来、年に1、2回訪ねるだけではあるが、それでも継続的に訪れる人は他には少ない。震災直後は様々な人が入り込み、適当なことをやってはいなくなった。震災前2300人だった人口は1600人を切るまで減少したが、箱物は増え、売れたかどうか分からない特産品が開発され、あちらこちらに「アート」が残った。そんな状況でもしつこく通い続けたことで多少は信頼も得られ、私が編集している雑誌の執筆者として高橋彦芳元村長(2023年11月逝去)を紹介していただいたり、栄村の文化財保全活動に長く携わっている方々をご紹介いただいたりした。

吉楽旅館の窓から

 この間、吉楽旅館にお孫さんが生まれたりと多少の明るい話題もあるが、「消滅可能性自治体」としての現実味を帯びている。もしかしたらその最期を見届けることになるかもしれないが、その時まで通い続けよう。
 今年は紅葉の季節に訪れようと思っている。

森宮野原駅