はじめに、野口悠紀雄氏(一橋大学 名誉教授)の記事をネット記事で拝読しました。
ネット記事にたまには真正面から向かい合うのも面白いです。Chat GPTが語学学習の必要性をなくすかどうか、という要旨の記事でしたが、氏のなくならないという意見の要点は2点。
①人間同士の直接のコミュニケーションが望ましい。
②文化的多様性の維持のため。
上記の記事で、私が共感した部分を紹介しますと、
・学習・習得した言語はコミュニケーションの質を、Chat GPTの活用はコミュニケーションの量をふやす。
となります。つまりメリットとして活かされる種類が異なり、どちらもプラスになる。食い合う必要はありません。
ここからは記事から離れた私の意見です。
生成AIは英語教師の立場を危うくするでしょうか。その一面はあると思われるでしょうが、私はあまりそう思いません。語学力は不必要と勘違いした若者が語学力を鍛えなくなれば、TPOに応じた表現などを教えることができる語学教師のような存在は、逆に貴重になるのではないでしょうか。
問題は、そのような語学力を軽視した風潮で、英語教師のほうが育つかどうか。これが個人的な心配です。
この記事のコメントの中に、『拙くとも一生懸命その国の言葉を話そうとする人を見ると、あなたの国の言葉・文化を尊重して学んできました、という態度を受け止めることができて共感を覚える』、というものがありました。
案外我々が考えるべき損得勘定の答えは、こんなところにあるのかもしれません。
とっとと私の結論を書いてしまうと、
・どちらもフル活用、Chat GPTは英字記事の翻訳など、極めて敷居を下げる。
・どちらかがどちらかを食いつぶすものではない。
・ビジネスレターや挨拶の原稿など、Chat GPTを活用すればいい。しかし例えば、うちの商品をアメリカの会社に売り込みたいとき、又はお詫びしたいとき、どちらが得策か。
・上記のコメントはヒント、相手を喜ばせる重要なファクターを考えれば一目瞭然。
といったところでしょうか。
今後の英語教師の受け取り方についても触れておきたいと思います。
・Chat GPTに始まる流れは止められない、生徒の使用を規制するのは無意味、どうせあり続けるんだから。
・AIの誤訳の恐れを盾に生徒を諫めるのも難しい、どうせすぐ進化するんだから。
・AIはあるものとして、どう生徒に活用させるかを考える。コミュニケーションの量も勝手には増えない。Chat GPTの活躍の場を教育現場で与え、同時に質を高めるコミュニケーションの重要性を生徒たちに伝える。
高校生の英語の実技テストだって、ネゴシエーションや説得をさせるインタビューテストを、単なるスピーチやプレゼンテーションの代わりに課してはどうでしょう。『私はあなたの弟(役)です。あなたは家族で博物館に行きたいが、弟は遊園地に行きたい。英語で弟を説得してください』とかね。
教訓として、ネット記事も正対して読み込むと、たまにはいいですよ、ってところでしょうか。
あ、写真は昨年のオーストラリアの朝市です。
ちゅうじろう
@Green_Puukko