写真と文

誰でも参加自由。メンバーが共同で作る WEB 同人誌

ルーズベルト病院ERと15分間

ビートルズ、オノ・ヨーコ、イギリスから離れジョン・レノンとして居たアメリカ、L.A.。
勝手に想像し作り上げていた部分の解明と知らない時間を観ることができた作品。

【ジョン・レノン、N.Y.】という映画がある。

ドキュメンタリー的な作品だ。

 

私の中学校からの同級生、彼はサッカー部のエース的存在だったN。彼は兄の影響でビートルズが大好きだった。そしてポールマッカートニー狂。ジョンのことも愛していた。そんな彼の影響もあり私も中学校3年生頃からビートルズを聴くようになった。
友人Nに強く感化された私はその時、ジョン派だったかも知れない。でもそれはあくまでもビートルズの曲が好きだっただけでジョン・レノンの曲は「イマジン」しかまだ把握できていなかった。

 

東京で出逢った人たちの中にビートルズが大好きな2人の年上がいた。彼らと酒を交わしたその時期よくビートルズのミュージッククリップをBARに設置してある100インチ近い巨大なスクリーンで観ていた。その時、はじめて多種多様なビートルズの曲を知った。

BARのカウンターの椅子に座る位置はだいたい決まっていたが、決まって私の右側に5つ年上の先輩がいた。スクリーンに映るビートルズの曲が変わるとその右側にいつも座る5つ年上の先輩は曲への注釈やポールマッカートニー、リンゴなどメンバーへの語りを補足してくれていた。

BARカウンターを挟んで、対面で立ち尽くしスクリーンを斜め上に見上げ、酒を提供するバーテンダーは私と12才年の離れた人だ。そのバーテンダーは常に無口で無言でスクリーン見つめる。風貌が…髪型と顔の容姿、雰囲気がジョン・レノンを意識しているようにも映っていた。とにかく言葉数が少ない人だった。

あまり深くは知見のないビートルズ談義に関して、この2人の勝手な講釈の繰り返しにより知識は広く、増えていった。

この同時期、知人から同行を求められ突然オノ・ヨーコ展に行く機会ができた。チケットを準備し引率してくれた彼女は仏教系の大学を出ていて、文学とバーボンを好み愛していた。たまに度外視、突拍子もない問いかけをしてくることがあるのでその回答には困り果て一緒に行ったBARでよく言い合いみたいな雰囲気になりその店のバーテンダーを困らせた思い出もある。

オノ・ヨーコ展へ向かう当日、朝方にBARで始発電車が動くのを待ち、上野と記憶しているであろう場所で催されたオノ・ヨーコ展。会場内は白が基調、壁一面が白で覆われていた。迷路のような作品展示の順。進行方向へ用意された作品。印象に残ったのはやはりジョン・レノンがオノ・ヨーコとコンタクトを取るきっかけとなったあの作品。

ハシゴが用意されていて、その梯子を上って行き天井の板が見える高さくらいまで体を顔を寄せる。そこには虫眼鏡が紐で吊るされていて、その虫眼鏡を手に取り壁に書かれた汚れぐらにしか見えない形を虫眼鏡で覗くと【yes】と黒いインクで書かれている。
ビートルズやジョン・レノン、ましてやオノ・ヨーコに対し造詣が深いわけではない私でも何かを感じた。その後に待っていた奇異な作品【オノ・ヨーコからの着信】は不思議と怖さがあった。展示場の中央付近に位置取られた、色が白い空間にある白い電話。形はよくある長方形を斜めにデザインされた番号の書かれたボタンを押しやすい角度に設計されているプッシュダイヤルのなんでもない白いコードが繋がれた電話。
ディスプレイされているその電話にオノ・ヨーコ本人から電話が掛かってきて、受話器を取るとオノ・ヨーコと通話ができるという作品だった。私はなぜか恐怖が湧き起こり遠目で観ているしかできなかったが会場に来ていた熱狂的な男性ファンは電話の前に立ち尽くしていた。すると直ぐに、白い電話が鳴り側に立つ男性は受話器を取り誰かと通話している。相手は当然だがオノ・ヨーコ本人だったのだろうか。

 

映画【ジョン・レノン、N.Y.】はイギリスから離れたジョンとヨーコの活動と生活がメインだ。イギリスから離れた、アメリカへ行った経緯なぞ勿論初めて知った内容だった。ある意味ではイギリス国対ジョン・レノン夫妻。
オノ・ヨーコの存在とは言葉で表すことのできない状態まで私の中できていた。
N.Y.はその時ニクソンが大統領に成るか成らないかのような時期でアメリカはアメリカで湧いていた。
ジョン・レノンという人物だから先陣を切ったのか、祭り上げられたのかはわからないが国や司法を動かすような詩を作りあげ、曲を書いた。その活動内容は言葉にならない。イギリスとビートルズのジョン・レノンしか知らなかった私には刺激が強すぎる内容でもあった。半ばニクソンとアメリカと対決したようなジョン・レノン。一度、政治側に負けたような状態に陥った際、オノ・ヨーコと仲間といる空間においてジョンは理不尽な行動をとったようだ。それがきっかけで作中オノ・ヨーコが語っているように「24時間」一緒に居たふたりからお互い距離を取る事を選んだという。
そこからジョン・レノンはひとりでL.A.を拠点にし活動していく。

 


ビートルズに寄っていた私のジョン・レノンの知識。アメリカでの生活、N.Y.での活動は無知といっても良かった。
奥さんとやり直し、生活を改め、御子息が生まれ、子育てに集中しアーティストとして復帰した。

ジョン・レノンと長年活動を共にしてきた音楽関係者、写真家がインタビューで語るように「イマジン」がある一定の線を保ち続けていた。
それを越えるものがなかった最中、超えるどころか一線を画した曲が『ウーマン』。

わたし個人的にも「イマジン」の印象ばかりが強く存在していた。
ジョン・レノンのアメリカでの活動を知ったことで『ウーマン』という曲に大きな理解を生じることが出来た。

 

 

自己紹介:TaNuma(今年は未だ蕎麦初めが叶いません。)

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