写真と文

誰でも参加自由。メンバーが共同で作る WEB 同人誌

実家が森になっていた

二年ぶりに祖父母を訪れたら、実家が森になっていた。

 

f:id:chizuchizuko:20241025135926j:image

 

祖父というのは、この記事の祖父である。祖父は畑を耕して食物を育てたいのだとばかり思っていた。その血を引いたと思った私は夏に細いネギを収穫し、にんじんと大根はいまいちに終わり、そろそろバケツ稲が収穫できそうになっている。とりあえず夏はバケツ稲農家、秋〜春はいちご農家になろうかななんて思っていた。

 

ところがどうやら違った。祖父は森を育てていた。久しぶりに行ったら敷地の半分は森だった。初めて家が建ったとき、家以外はほぼ更地だったのを覚えているし、そこから祖父が小さい畑をつくってトマトや茄子を植えていたのも覚えていた。同時にりんごやみかんなどの果樹も植えていた。年月が経つにつれて「木々が多めの庭だな」と思っていたが、今回訪れたら庭要素はほぼ皆無になり、木が鬱蒼と生い茂る森になっていた。

 

認知症が進行しているんだかしていないんだかよくわからない祖父は、木を切ろうとすると怒る。明らかにぼうぼうなので、植木屋さんが何軒も営業に来ていた。きっと植木屋さんの「切りたい」という欲求を駆り立てる庭なのだろう。敷地外にはみ出る枝は切っておきたいのだが、そういうときは家族でも極秘ミッションとして進めないといけない。祖父はもう庭仕事はほとんどせずに家の中にいるのだが、時折なにかに呼ばれたかのように、煙草の灰捨てという名の巡回を始める。そんなときに見つかったら、家族だろうが知らない人だろうが一発アウトだ。認知症とはそういうところには効かないらしい。

 

人間の敷地に森ができるという現象は非常に興味深かった。実は私は、住んでいる市の雑木林を保全できるようになるための講座に一年間通っている最中だ。講義と実地研修を通して「雑木林とはなにか」「生物多様性とはなにか」について学んでいる。人の手が入らなくなった雑木林は一見自然そうだが、実は背が高い木が日光を遮り、その他の種は淘汰され、生物多様性は失われるらしい。人間の手が入った方が、生物多様性は保たれるそうだ。ただし、その多様性は手入れする人間の主観が入りまくった「多様性」である。そんなことを学んでいたら、自分の身近なところに森ができていた。25年ほどの歳月をかければ、人間の敷地だって森に還るのである。

 

家はタバコのヤニだらけだし、庭もぼうぼうだし、社会的に見たら羨ましいものは何もないだろう。祖父も残っている家族も、家の外部との接触はとても少なく、名声も地位もなければ尋ねてくる知り合いもいない。この森が追い討ちをかけて外界との接触を拒んでいるようにも見える。でも最低限の福祉を受けながら、将来のことは何も考えず、この家に住み続けることができるというのは意外と幸せなことなのではないか。毎日森が育っているのを感じながら、ただただ死ぬまでの時間を過ごしている。そんな最低限の、でも確かに生きる権利を握りしめている人は、日本社会でいったいどのくらいいるだろう。

 

認知症のはずの祖父は、帰り際だけ私のことを思い出したように、家の窓から手を振って見送ってくれた。いったん家を離れると、自分の洋服や持ち物がすべて煙草臭さにまみれていることに気づく。でも、鬱蒼と生える木々と同様に私の居場所もあるような気がして、訪れるのをやめられないのである。

 

 

 

寄稿者:地図子

まちなみ冒険家。地理・歴史・地学を使ってプチ冒険すれば、面白くない場所なんてない。川・暗渠・用水・湧水・井戸ポンプ・灯台・狂気ぶた・飛び出し坊やなど、なんの意味があるのかわからないものを収集しています。

2025/2/11-16に個展を開きます。詳細は地図子ブログにアップします↓

 

地図子ブログ:ふと思い立って、プチ冒険