写真と文

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撮れなかった写真のある日

            

 身のまわりで携帯電話を持つことがふつうになってきたのは、私が十代になるころのことだった。私が通う中学校では、子どもたちは中学校卒業と同時に携帯電話を与えられ、卒業式で互いの連絡先を交換する。私が携帯電話を手にしたのも、中学を卒業する15のときだった。その当時、私が携帯電話の使い方を覚えるのに特別な勉強も、時間も必要なかった。私は教わってもいないのに携帯で写真を撮り、電話をかけ、友人にメールを送った。

 携帯電話は簡単に使えるもの、だから、「携帯電話が使えない高齢者」というのが理解できなかった。写真が撮れない(なんで?) 文字が入力できない(なんで?) 着信に応答するつもりが、間違えて着信拒否してしまう(なんで?) 。「歳をとると物覚えが悪くなる」なんてただの言い訳じゃない?なんて、うすうす思っていたんだと思う。もしかしたら想像力がなくて。

 数年前から頻繁にめまいを起こすようになった。病名はあるけれど、その病気がどういった原因でなるのかはまだよくわかっていない。らしい。例えば気圧が下がって、寝不足で、ストレスを感じてリンパの流れが滞ると、耳のなかにあるからだの傾きを感じる部位が異常を起こして、ぐるぐる目がまわるようなめまいを引き起こす。だから雨の降りそうな日は要注意で、そういう日はいつもよりはやく眠る。天気の変化はささやかで、しかし、それによって引き起こされるからだの変化は甚大で、自分はなんてちっぽけな人間なんだろうと感じる。自分のからだはじぶんの意思で正常に保てたり、変えられたりするものではなかったのかもしれない、と考えて、いままでは自分のからだは自分の意思でどうにでもなると思い込んでいたことにはじめて気が付く。

 映画館で映画を観るときは、いつも写真を撮る。スクリーン入り口に掲示されている映画のポスターだ。チケットを日記に貼っておくよりも、こうしたほうが後でどんな映画を観たか思い出しやすいということに、最近気が付いた。

 最近気が付いて最近始めたことなのに、何度か写真を撮り逃している日があって、たいていそれは上映時間ギリギリに入場したときのことだ。30分前に職場を出れば間に合う、45分前に自宅を出れば間に合うと計画を立てているはずなのに、なぜかギリギリになる。前回は30分前に出発してギリギリだったからと、50分前に出るようにしたのに、また開演10分前に着いて不安な気持ちでチケットカウンターの列に並んでいる。明らかにおかしい。

 中学生の私はわたしを、時間にルーズだとか、間に合おうとする気がないのだとか言って責めるだろう。でも本当に、遅れるつもりなんてないのだ。予告が終わってからいそいそと劇場に入ってくる客をわたしは今でも不快に思うし、自分ならそうしてもいいなんて思ってもいない。ただ、時間は自分の思い通りにならずに手からすり抜けて、気が付いたらまた間に合わなさそうになっている。勘違いする。忘れる。以前にはなかった感覚だ。それは「想像力がなかった」なんて言葉で言い表せるものではなくて、まるで、先が見えない暗闇に向かってわたしは歩いていて、自分の足なのに自分の思い通りにならないような、自分がどうなってしまうのかわからないような感覚になる。

 多分だけど、私は歳をとっている。結婚もしていないし子どももまだいないのに、からだは人生を終える準備を始めている。わたしのからだは中学生の私が思っていたよりもずっと簡単に思い通りになるものでもなくなっていて、私はこれからもっと間違えたり遅れたりすることが増えていくんだろう。
 私はたぶんできるだけ間違えたくないと思って生きてきたから、ミスすることはとても悲しい。でもこれからは許してあげなくちゃ、と思う。それは自分自身であり、中学生の私が冷たい目を向けてきた携帯の使えないおばあさんでもある。やさしくなりたいなあ、そして、へっちゃらになりたい。いつかわたしはへっちゃらになりたいよ。

 

 寄稿 
森 淳(もり すなお) 「ミッシング」はとてもよかった
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