人がなんで本を読むかというと、頭が良くなりたいとか、頭が良いように見せたいからとか色々あると思いますが、純文学歴30年の私から言わせてもらうと、どうしても夕飯の時に酒がないとやっていけんとか、煙草がないとどうにもあかんとかそういうのと同じで、日常において自分に染みついた強力な仕草として、本を開くというその所作が抜けないから読んでいるのかなと。ちなみにいま純文学歴30年とか言いましたが、自分でも意味がよくわからなかった。
あと、ふと本を手に取りたくなるきっかけや、モチベーションにも色々とあるはずですが、「なんかめっちゃうまそうなことが書かれていた」という内容の記憶、これはバカにできない。小説の中の食事風景や、料理に関する描写。それらをもういちど確認したいがために本を取ることが、私はよくあります。てことで、私がこれまで読んだ本の中で、「めっちゃうまそうなことが書かれていた」本を取り上げて紹介し、勝手に自己満足していきたいと思います。よろしくお願いします。
今回紹介したいのが、小川国夫『アポロンの島』所収の、『重い疲れ』という短編小説です。作者の小川国夫について説明すると3万字は軽く書くのでやめときます。
あらすじですが、異国をバイク旅行している若者が、途中で食べ物も飲み物も無くなってしまい、すんごいしんどくなってしまうのですね。すっかりバイクも汚れて、エンジンの調子も良くない。不安になりながら走っていると、そのうち村のようなところを見つけて、向かうと修理工場があった。そこでバイクのエンジンは限界をむかえて止まってしまいます。
その修理工場で働いていた人たちが、ちょうどお昼ご飯の準備をしていたのですが、そのあたりの描写が読んでるだけで実にうまそうなのです。
修理場では男たちは、鳥肉のこまぎれと玉葱とピーマンを卵であえて、バタでいためていた。一人の男が、褐色の葡萄酒をみんなの不揃いのコップに、大きい壜から注いだ。
料理の具体名がないのがいいですね。なんだか分からないけど、うまそうなものが荒っぽく作られていて、雑にワインも注がれている。傍観者が観察した昼餉の手際が、淡々とした筆致から静かに匂い立ってきます。若者は修理場の男たちに、ここらへんに食事ができる場所がないかどうか聞くと、無いと言われ、ここで自分たちと一緒に食べていけと提案され、従います。
フライパンの中のうまそうなものを、男たちは次々に匙ですくって、パンではさんで、食べ始めていた。彼らは時々褐色の葡萄酒で口を潤した。
パンに挟むというのがまたいい。おそらくはフライパンの大きさに比してだいぶ小さいスプーンで掬っているのでしょう。雑さと細やかさ。文章表現における食事の描写の完成度は、所作で決まると思います。何を食べたかではなくて、いかに食べたか。それが書けないと、文章は平坦になりつまらなくなります。
彼は男たちの仲間に入った。男の一人は、コップのからなのをとって、中についているごみを指で払うと、葡萄酒をぶちまけてくれた。彼は白っぽい丸いパンをとると、真中にさけ目を入れて、フライパンの中にものを匙ですくってはさんだ。彼のわきの男は、もっとはさめ、といった。彼は、これでいい、といって、出て来た涎をパンで受け止めるようにして、口へ入れた。
二、三の男たちの手にも彼の手にも、オイルと土が混じってついていた。そういう指で摑んで食べるものは特別の味がした。
雑に招き入れられ、オイルの匂いが漂う埃っぽい場所で、男たちだけで手も洗わずに作った料理を食べる、このなんともいえない格別感。お腹が空いてきませんか。食後、若者は旅を再開しますが、工場でワインばっかり飲んで水を飲んできなかったことを思い出し、またしんどくなってきます。いちいちしんどくなる若者ですが、なんとかなるというか。
『重い疲れ』も含めて、小川国夫の小説の筆致は淡々としていながらも、表現がとても正確、かつ鮮やかです。劇的な出来事も過剰にドラマティックになりすぎず、自然な人間の動きをよく観察しているからこそ、端正に表現されています。本当の意味で、見たように書ける稀有な作家さんだと思います。
ちなみに彼、生前はなかなかのイケおじでしたよ。
寄稿:ほし氏
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